少年漫画雑誌の私的な歴史考察 2

1970年代中頃(ジャンプの時代)

1968年に「ジャンプ」、少し遅れて1969年に「チャンピオン」が創刊されました。これで、週刊少年四大漫画誌(当時は「キング」もありましたが)がそろったということになります。

創刊されてまもなく、あまり時間がたたないうちに「ジャンプ」が売り上げを猛烈に伸ばしトップに立ちます。これにはいくつかの要因が考えられます。
まずは、「ジャンプ」が後発の強みを生かして、徹底的に「サンデー」と「マガジン」を研究した上で発売したということです。後出しじゃんけんですから強いです。具体的には、雑誌の人気の中心であった漫画だけで構成したというのが大きなポイントでした。もちろん逆に、後発の弱みもあり、既に「サンデー」と「マガジン」で連載を持っている人気作家を獲得することはできませんでした。しかし、誰も予想し得なかったことですが、この弱みすらもプラスに働くことになります。
新人に頼らざるを得なかった「ジャンプ」で、本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』と永井豪の『ハレンチ学園』という新人による2作品が社会現象になるほど爆発的にヒットしました。2人共に当時は、プロとしては絵があまり上手くなく荒削りで、作家層の厚い「サンデー」や「マガジン」だったら、おそらく連載作品を持てるのはもう少し先のことだっただろうと思います。四の五の言っていられない「ジャンプ」だからこその連載でした。
また、その「サンデー」と「マガジン」は、一時の勢いがなくなっていました。これも「ジャンプ」にプラスに働きました。社会現象にまでなった「マガジン」も、さすがに社会人となってしまった最初期の読者は離れていってしまい、逆に劇画路線のせいで新たな小中学生の読者を獲得できませんでした。その小中学生が「ジャンプ」に流れたのだと思います。
漫画の内容も、挑戦的な作品が少なくなりマンネリ気味でした。そんな中で、絵が下手で荒削りだが勢いのある新人2人の作品は、読者に新鮮な面白さを与えたのだと思います。特に『ハレンチ学園』は、少年誌でもエロというものが求められていて、作品の武器になるということを示したという意味で、エポックメイキングな作品だと思います。
これに気をよくした「ジャンプ」は、新人発掘に力を入れて次々と新人を起用していき、そして成功していきます。

1970年代後半(チャンピオンの時代)

一方、最後に登場した「チャンピオン」は、後発にもかかわらず手塚治虫をはじめとする人気作家の獲得に成功します。おそらくこれは、自社でサンデーコミックスを出していた関係で漫画家との強いパイプがあった成果だと思われます。しかし、全般的に人気作家という古臭さがぬぐえず、肝心の手塚治虫ですらもスランプ期で、当初は苦戦をしいられます。

それでも次第に、『ドカベン』が軌道に乗り始めたあたりから、ヒット作が次々と現れます。なにより、神様・手塚治虫が長年温めてきた企画である『ブラック・ジャック』でついにスランプから抜け出します。これには手塚先生自身もさることながら、我慢して使ってきた編集部も大いに嬉しかったことと思われます。1970年代後半には、『がきデカ』『マカロニほうれん荘』『らんぽう』などの斬新なギャグ漫画のヒット作を連発して、「チャンピオン」の売り上げが大きく伸びました。売り上げこそ「ジャンプ」を追い越すところまではいきませんでしたが、この頃の「チャンピオン」は勢いがあり、今では信じられないかもしれませんが、「チャンピオン」読んでる=ナウいみたいな時代の最先端な感じがあったのです。

こうして出揃った四大誌ですが、1980年代に入るとそれぞれが独自色を強くしていき、少年漫画誌の黄金期を築いていくことになります。その中で、有名な三大原則を柱として「ジャンプ」が怪物雑誌へと成長していくのです。